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第三話 - 【7】

2007年03月05日

第一話 - 【1】

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 5年後の自分、10年後の自分がどうなっているかなんて想像できている人がどのくらいいるんだろう。
明日の自分の未来すらわからないのに……そう、早い話、1分、1秒後の事すら見えないのが人生なんだって思う。

そんな事を考えているのは私だけかもしれないけど……それが今の私。新谷梓、25才。
自分の未来に何のビジョンも見えていない……そう、あんな事が私の未来に待ち構えているなんて、想像すらできなかった。

 去年の夏の終わり頃、私は1年7ヶ月付き合っている長瀬ハルから、カレの工房でプローポーズされた。
なんともハルらしいプロポーズだった。

 ハルはガラスのウェルカムボードを私に差し出して、耳まで真っ赤になってうつむいてこう言った。

「これに一緒に名前を並べられたらうれしいんだけど」

ハルの長いまつ毛が震えていて、ここで私が「NO」って言ったらハルはどうなっちゃうんだろう? って不安になって、思わず「うん。私も……うれしい」って返事をしてしまった。そう言ってから、なんだか取り返しのつかないこと言ったような気がしていた……。

プロポーズなんて25年生きてきて初めての事だったから、羽がはえて飛んで行きそうになるくらい嬉しくて、ドキドキして震えて声なんか出なくなって、何も考えずにただうなずくだけだと思ってたのに、こんな気持ちで返事するなんて……。

これって、私の人生変えるくらいの出来事のはずなのに。
そんな私の不安な気持ちに気づくはずもなく、ハルは私をギュッと抱きしめて長いキスをした。
ハルとの長いキスの間中、こんなものなのかな、リアルなプロポーズって。想像していたのと違う……けど、きっとみんなそうなんだ、って考えてた。

「みんなそうなんだ」って言葉は安心する魔法の言葉だけど、その言葉で安心している自分が嫌い。

2007年03月14日

第一話 - 【2】

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 ハルはサンドブラストの工房をお父さんとふたりでやっているアーティストだ。ハルは職人だって言うんだけど。

サンドブラストっていうのは、ガラスの表面に砂を圧縮した空気で吹き付けて削って模様を彫るガラスの彫刻みたいな感じ。
それがすごく素敵で、私はその作品に一目惚れした。
その頃、ちょうど私が働いているショップ『Chat』(フランス語で猫)で、バレンタインの企画を考えている時期だった。

 『Chat』は、ファッションビルの6階に入っていて、高校生から20代後半までの女性がターゲットのちょっとカジュアルな洋服や小物を扱っている、そこそこ人気があるショップだ。
でもこの世界、競争が激しいから年中行事にはいつも企画出しで頭が痛い。そんな時、このサンドブラストを見て、私ならこれをあげたいかも……って思ったの。

好きなデザインを頼めるから、グラスに愛のメッセージやイラストを入れて贈るっていうのはどうかなって思って提出したら、思いがけずGOサインが出た。その企画を任された私は、いくつか候補がある中で、ネットで検索して一目惚れした作品を作っている『風の工房』にアポをとって、同じショップの樫本ユリアと一緒に工房を訪ねた。


これがハルと私の出逢いだった。

第一話 - 【3】

【3】blog_c2.jpg
 初めてハルを見た時、女の子かと思うくらい綺麗な顔をしててビックリしたのを今でも覚えている。お肌も女の私が嫉妬したくなるくらい、白くてつるスベお肌。

ユリアは

「どうせ、そんなオタクっぽい仕事やってる人ってオヤジかデブなんじゃないのぉ? アズに任せたから」

って面倒くさそうについてきてたのに、工房から出てきたハルを見た途端、その綺麗な顔にノックアウトされてやる気満々に大変身。でも、いざ交渉する相手がハルじゃなくて、ハルの父親の方だと分かった瞬間、

「あと、交渉任せた。アズの企画なんだから、責任持ってしっかりね。私はあっちフォローしとくから、あ~忙しい」

だって。

ユリアの視線の先には、ハルの作品を取材に来ているカメラマンがいた。そういうのに弱いユリアはハルとそのカメラマンの間を行ったり来たりしている。そんなユリアを見てると、つくづく恋愛力ってこういうところで差が出るものなのかも……って思ったりした。

私の恋愛力は……ため息でそうだから、考えるのやめとこ。
結局いつも通り、私が企画に乗ってくれるかどうかの交渉から、値段の交渉までハルのお父さんと話を詰めた。

やっぱり私は、地味に縁の下の力持ちに徹しているのが似合ってる。

「この企画、キミのだって?」


そのカメラマンの男が私に声をかけてきた。

第一話 - 【4】

【4】blog_d2.jpg
 こういう人ってなんだか苦手。

「いいセンスしてるね。これ、オレも企画通したんだ。これも何かの縁って事で、よかったら、キミのショップも取材させてくれるとうれしいんだけど」

それって、暗に自分の企画がセンスいいだろう? って自慢してない?
私が返事する前に、ユリアが「ぜひ!」と飛んできて、差し出された名刺を素早く受け取った。

「え~っ!スゴイ『Vitrine~ヴィトリヌ』昔から愛読してました~。柳田翔吾さんって言うんですか~。記事書いていらっしゃるなんてスゴイ感激!」

早速、ユリアは名刺を翔吾に渡していた。
さっきから、ユリアの声のトーンは上がりっぱなし。

「本業はこっち、カメラの方なんだけどね。カメラだけじゃ食っていけなくて。キミのももらえる?」

「え? あっ、はい」

私も翔吾と名刺を交換した。

「梓……アズでいいよね? 新谷さんて呼ぶのもなんだか堅苦しいし」

「はぁ……」

曖昧に微笑んでいる私。こういう時ってイヤですって言いづらい。
それにしても、失礼なヤツだって心の中で思うけど、顔には出せない。

第一話 - 【5】

【5】blog_e2.jpg
帰ってから店長の白坂美咲さんに取材の話をしたら、乗り気で、

「OK。うちの宣伝になるんだから、取材受けなさいよ」

と、企画発案者って事で、私が取材を受ける羽目になってしまった。
こういうの苦手なのに。

「ユリアの方が、取材されるのに向いてるのにね」

「向こうが、アズを指名したんだから仕方ないじゃないよ」

ユリアが不機嫌になった。

「ごめん」

「なんで謝るのよ」

「だって……」

本当に、ユリアの方が取材なんて派手な事には向いてるって思ったから、素直に思った事を言っただけなのに、なんだかいつも私はユリアを不機嫌にさせてしまう。
取材当日『Chat』を休もうかと思ったくらい憂鬱だった。取材の時間が近づいてきて翔吾が姿を現した時、もう逃げられない、この企画を成功させる為だって自分に言い聞かせて、取材に臨んだ。

いつの間にかこの企画の話に夢中になっていて、インタビューはあっという間に終わった。でも、次の写真撮影が問題。どうしても、緊張してぎこちなくなってしまう私に、翔吾は笑顔で、

「大丈夫、大丈夫。オレの腕を信じて。今日がダメでも明日があるさ」

なんて言いながらシャッターを押し続けた。
私はその『明日があるさ』って言葉が嫌いだ。今日出来ないことが明日、コロッとできるようになるわけない。明日、明日なんて言ってないで、今からコツコツやらないと私はみんなに追いつけないのは、体験済み。

コツコツやっても、できない事だらけなのに。

2007年03月19日

第一話 - 【6】

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翔吾はそれっきり姿を現さなかった。やっぱり、いい加減なヤツなんだ。

それなのに『Vitrine』に載った私の写真は、取材の時に撮ったものじゃなくて、私が知らない間にどこかから撮ったものが載っていた。
隠し撮りするなんて、悪い趣味だって腹が立ったけど、悔しい事に……。
すごく自然に笑っている私がそこにいた。

『Vitrine』に取材記事が載った効果も手伝って、バレンタインの企画は想像以上に好評で、私はハルの工房に出来上がった商品の箱詰めとラッピングに借り出されて毎晩帰りが午前0時を回っていた。
いつも最後まで残っているのは私とハルのご両親だけ。

「門限がうるさくて~」

ひとり暮らしのユリアは都合が悪くなるとすぐこの手を使って早々に作業からエスケープ。
最後まで残って一緒に作業しているうちに、いつの間にかハルが私を駅まで送ってくれるようになっていた。

「あの、新谷さんは、なんで猫を数える時に1匹じゃなくて1尾ってしっぽで数えるの?」

「おかしいですよね。子供の頃からの癖なんです」

「いや。なんかそういうのっていいなって思って」

途切れ途切れの会話を助けてくれたのが、小さな公園の猫だった。
駅までの道の途中に小さな公園があってそこで時々、1尾の黒猫が夜空を見上げているのを見かける事があって、ハルとふたりで「今日はあの哲学にゃんこに会えるといいですね」なんて言いながらなんとか、会話をつないでいた。なんだか、お互いすごく緊張してたみたい。

ハルと別れて、電車に乗ると途端にホッと緊張感が溶けた。

第一話 - 【7】

【7】cherry.jpg
バレンタイン企画最終日、久しぶりに翔吾が様子を見に現れた。

「オレには告白なし?」

「なしです。ユリア、行こう」

「写真気に入った? あれ、かなり修正に苦労したんだぜ」

冗談でも笑えない。ん? もしかして冗談じゃない? 思わず、店に貼ってある記事の写真と自分の顔を鏡で比べてみる。
その私の姿を見て、大笑いしている翔吾。
本当に、翔吾の事が苦手、ムカつく。でも、この企画が成功したのもあの翔吾が書いた記事の効果が大きかったんだと思う。だから、余計ムカつく。
「ありがとう」って言わなきゃいけないのはわかってるんだけど、なんだか、この人だけには、素直になれない。

「白坂さん、これから『風の工房』さんにお礼に行ってきます。柳田翔吾さん。記事どうもありがとうございました。ついでに写真の修正もありがとうございました。行こう」

翔吾と一緒に笑っているユリアを引っ張って外に出た。

「これ、僕が作った作品だけどよかったら」

ユリアとふたりでチョコレートを持って工房へお礼に行った時、ハルが私とユリアに綺麗に包装された箱をくれた。

「え~っ! いいんですか? どうしよう」

ユリアがその場で箱を開けようとすると、ハルが慌てて、

「後で、家に帰ってから開けてください。今、開けられるとちょっと恥ずかしいって言うか……」

と、止めた。

第一話 - 【8】

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「じゃあ、私からこれ」

ユリアはショップから渡されたチョコに添えて、ちゃっかりハルが好きだって言っていた、CDを渡していた。
私はその時、なんにも渡すものがなくてちょっと気まずい感じ……。

「開けちゃおうっと」

ユリアが帰りによったカフェで、ハルからのプレゼントを開けた。
三日月に星が散りばめられたデザインのブルーの綺麗な色キセグラスが出てきた。

「キレイ! アズのは? ね、早く見せてよ」

「ちょっと待って」

私のグラスは、夜空にちりばめられた星を眺めている猫の後姿が描かれている綺麗なブルーの色キセグラスだった。

「これって、あの時の公園の猫……」

中に入っていたメッセージカードを読んだ私は、ここで開けるんじゃなかったって後悔した。
ユリアがみるみる不機嫌になって、

「なんで、私のは月と星だけなのよ。まったく手抜きもいいとこ。で、何よそのカードは? 私のには入ってなかった」

もう、興味ないって感じでポンとグラスを置いて、私が手に持っていたメッセージカードを奪い取って読んだユリアは、

「ふ~ん。そういう事だったわけね。グラスにも差が出るわけだ」

「まだ、別にユリアが考えているようなアレじゃないから」


カードを奪い返した私は真っ赤になっているのが自分でも分かった。

第一話 - 【9】

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『グラスの猫わかりますか? あの哲学猫です。最後に梓さんを駅まで送った帰り、もうこれで送る事もないんだなって思ったら、急に寂しくなってしまいました。もし迷惑じゃなかったら、またお逢いしたいと思っています。携帯にメール下さい』

カードにはそう書いてあった。


「いつから、新谷さんから梓さんになったわけ?」

「このカードで初めて」

「ウゲッ、なにそれ。しかもバレンタインに逆告白なんて……私、こういう人、ムリだわ。カードの文章も硬いし。26才の若さが感じられない。私に遠慮しないでアズ付き合っちゃえば。今、別に付き合ってる人いないんでしょ?」


「うん……どうしよう」

「携帯貸して」

ユリアは私の携帯を取り上げた。
ユリアは私の携帯を取り上げ、すぐにハルにOKの返事のメールを出してしまった。

「こうでもしないと、アズはそのまま恋愛のチャンス逃しそうだもんね。私と違って」

「そうかな……」

実際そうなんだけど。
1年と7ヶ月前、こんな感じで始まったハルとの交際も順調で、仕事も楽しくなってきたところだったんだけど……結婚するなら仕事は辞めなきゃってなんとなく思ってた。

第一話 - 【10】

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 ハルのお母さんは身体が弱かったから、仕事の合間をぬっては私がお母さんの代わりに工房を手伝ったりしていて、すっかり頼りにされていたし、私も誰かに頼りにされるのって悪い気がしないなって思ってた。

私は、三人姉妹の末っ子だから、家族の中でも頼られた事なんかなかったせいもあるかも。
結婚する事が決まった時から、私が仕事を辞めて工房を手伝う事は、お互いの両親とも暗黙の了解って感じで、どんどん話は進められていった。

一番上の姉、美咲(私はミーちゃんて呼んでるんだけど)は、子供の頃から三姉妹の中では一番優等生。自分が結婚して専業主婦として双子を育てているから、私が仕事をやめて家庭におさまる事は当然といった感じ。

むしろ嬉々として私にうるさいくらい主婦とは、妻とは、母とはってアドバイスをしてくる。
二番目の姉、蘭子(私はランランて呼んでいる)は、波乱万丈のはみ出し者で、頭で考えるよりインスピレーションですぐ行動してしまうから、ミーちゃんとは水と油。今は、イギリスにガーデニングの修行に行ったままで、私が結婚するってメールしても『愚かなことを』ってメールを返信してきただけ。

 私は、ふたりの姉の影に隠れて存在感の薄い子供だったと思う。
結婚の準備って、色々決めなくちゃならない事がたくさんあって、毎日何かに追い立てられているようだ。結局、あれこれ迷って決められない私の代わりに、母やミーちゃんが決めていく。なんだか、肝心な事を忘れているような落ち着かない気持ちのまま、時は過ぎていった。

今年いっぱいで『Chat』を寿退社する事を白坂さんに伝えた時、意外な事を言われて驚いた。

2007年03月28日

第ニ話 - 【1】

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 白坂さんは、ひとつため息をつくと、すぐに笑顔になってこう言った。
「そう……おめでとう。でも、残念だわ。来年4月の人事でこのショップの店長が代わるのは知ってるわよね」
「……はい」
「アズはその店長候補にあがってたのよ」
「………」
 一瞬、白坂さんがなにを言っているのか理解できなかった。だって、私なんかが、店長候補だなんて……。
「あなた、この3年間コツコツと頑張ってきたでしょ? お客様もあなたを信頼していたし。去年のバレンタイン企画以来、何度も『Vitrine』にあなたの企画が取り上げられて、あなたのファンも多かったし、そろそろ任せてみようかなって思っていたところだったの」
「そう……だったんです……か……」
 白坂さんは、歯切れの悪い私の顔を見て、念を押すように言った。
「本当にこの仕事を、続ける気はないのね?」
「すみません。彼の工房を手伝う事になってるので」
 心の中がもやもやしてる。

 もしも……もしも今、私が別の道を選んだとしたら、私の人生は変わるのかな?
 でも、どんな風に?
 そんなこと、考えても仕方ないことなのに……。

 噂はアッと言う間に広まっていた。
 私が店長候補の座を蹴って、寿退社を選んだと、話に尾ひれがついて他のショップの子達にまで知れ渡っていた。
 店長候補だって知ったのは、寿退社を決めた後のことなのに。

第ニ話 - 【2】

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 クリスマス企画の取材にきていた翔吾は、白坂さんから私の撮影もこれが最後だと聞かされていた。
 『Chat』をやめると聞いた翔吾は案の定、必要以上にニコニコしながらやってきた。この微笑が曲者。低気圧接近。嵐なんてもんじゃない。私の天敵来襲。
「お前、今どき寿退社かよ~。ダセ~」
「ダサくて悪い?」
「本当にいいのかよ」
「なにが?」
「本当に結婚したいのか?」
「……したいわよ」
「あっ、今、0.5秒間があいた。やっぱりな」
「なによ、やっぱりなって」
 急に翔吾が私の目を見て真面目な顔をしてこう言った。
「オレね、色んな人の顔撮ってるから、わかるんだよね。お前の表情見てると、迷ってるのがさ」
 私は思わず翔吾から目をそらしていた。
「ユリア、ここにインチキ占い師がいるよ~」
 私はこれ以上なにも言われたくなくて、ユリアのところへ行った。
 
 ユリアは私が店長候補だったって事を聞いて以来、ちょっと元気がない。
 だってユリアは次の店長には自分がなるって思っていたんだもん、落ち込むよね。
「私なんかよりユリアの方が店長には向いてるのに」
「そんなことないって」
「次からは、ユリアが取材されるんでしょ? 私なんかより、ユリアの方がずっと……」
「お前な。私なんか、私なんかって、なんだよそれ」
 いつの間にか私の後ろに立っていた翔吾はいつになく険しい表情をしていた。

第ニ話 - 【3】

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「私なんかなんて言ってるやつには、店長なんて無理だな」
 静かに突き放すようにそう言った翔吾が私を見る目は、笑ってなかった。
「候補だっただけですから。あくまでも、候補」
「よくわかってんじゃん。予定は未定とおんなじだもんな」
「意味わかんない」
「なんでも、そうやって逃げ道考えてるってことだよ」
「……」
「そんなやつ、辞めて正解かもな。おまえには無理だ」
「無理よ! 無理に決まってるじゃない! だから私は結婚……」
 思わず言いかけた言葉に、私自身驚いて黙り込んだ。
 翔吾はフンッて笑った。
 やられた。翔吾の思うツボだ。 これ以上、翔吾の相手をしていたら自分が何を言い出すかわからない。
 不安になった私はその場から逃げ出した。

迷ってる……その通りだった。
翔吾が言うとおり、私はハルとの結婚に迷っている自分に前から気づいていた。それは、店長候補だった事を知ったからじゃない。もっと前……そう、本当はハルからプロポーズされた時からずっと迷ってた。

『本当に結婚したいのか?』
 翔吾の声が頭の中でリフレインしていた。
「うるさい!」
「アズ!?」
 追いかけてきたユリアが驚いた顔で私を見る。
「あ……」
「大丈夫?」
「う、うん……ごめん……ユリア……ひとりにして」
「そ……わかった……ちょっと翔吾もひどいよね。私はハルとの結婚いいと思うよ。お似合いだし」
ユリアは、微笑んでその場から去って行った。

第ニ話 - 【4】

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 家に帰ってから、イギリスにいる姉のランランに今日の事をメールしたら、こんな返信がきた。

『翔吾とかいうヤツとは気が合いそうだ。あんたの「わたしなんか」は相変わらず直ってないようだけど、それは時として人を傷つけるぞ』

 これだけ? 私の迷いにはひと言もふれてないじゃない。
 人の悩みに付き合えとは言わないけど、ここまで突き放さなくてもいいじゃないよ。せめてほんの少しだけ優しい言葉が欲しかったのに……。

「ウィーッス!」
 翔吾は何事もなかったかのように、相変わらずヘラヘラしながら、私の前に現れていた。
 翔吾が現れてから、少しするとビル内にカスケーズの『悲しき雨音』が流れ始めた。かなり古いんだけど、このビルのオーナーの趣味みたい。
 雨が降り始めると必ずこの曲が流れる。
「雨だ……」
 私たちは、傘立てや雨に対応する商品を並べ始めた。

 まわりの慌しい動きをキョトンと見ている翔吾に、事務的に声をかける私。
「そこ、邪魔なんですけど」
 傘立てを置く場所に突っ立ってるんだもん。
「あ、わるい」
「ここ、窓もないのになんで雨が降ってきたってわかるんだよ」
 翔吾が不思議そうに私に聞いてくる。
「企業秘密です。忙しいから、そこどいて」
「もう、誰もいないじゃん。教えてよ」
「………」
 私は無視をした。
「ねえ、こないだから、機嫌悪くないか?」
 呆れた。この間の事、もう忘れたとでもいうつもりか?
「あっ、もしかして、マリッジブルー?」
 無視、無視。私は自分に言い聞かせた。

第ニ話 - 【5】

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「そんなにデリケートだったっけ?」
 無視、無視、無視。
「オレ初めて見た。生マリッジブルーのやつ」
 無視、無視、無視、無視。
「やっぱ、イライラしたり不安になったりしてるんだ……どうりで、ここんとこお前おかしいはずだよ」
 無視、無視、無視、無視、無視。
「よしっ! 記念に一枚」
 無視……パシャッとシャッターの音がした瞬間、私の無視の砦は崩れた。
「やめてよ! そんなの撮らないでよ!」
 翔吾は、ニコニコ笑ってデジカメのモニターを見せた。
「そんなのって、これのこと?」
 そこには、傘立ての中に無造作に納まっているカラフルな濡れた傘たちが写っていた。
「………」
 私は顔から火が出るかと思うくらい、恥ずかしかった。
「新しいこと知った記念だよ。ほら、雨が降ると曲でお知らせ」
「まぎらわしいのよ!」
「勝手に勘違いしたんだろ? オレのせいかよ」
「あんたのせいよ」
「おまえのブルーはオレには関係ない」
「………うるさいのよ……ブルー、ブルーって。私が翔吾になにか迷惑かけた?」
 今度は翔吾が黙り込んだ。
「私はマリッジブルーでもないし、幸せだし、結婚するの! 決めたんだから結婚するの!」
「なんだそれ、決めたんだから結婚するって……へんなの」
 そう言うと、翔吾は店の傘を一本選ぶと、お金をレジに置いて、帰って行った。
「へんなのって言うな」
 頭痛がしてきた。雨の日は気圧のせいか湿度のせいか、昔から頭痛がおきる。
 今日は、ダブルだ……雨と翔吾と……ブルー?……トリプルか……マリッジブルー……なのかな……。
 だとしたら、私の不安も説明がつくけど……。

第ニ話 - 【6】

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 私は翔吾に会いたくなかったけど、最後の取材だけは意地でもちゃんとやってやるつもり。
 だって、ほんとうにこれで最後の取材なんだから。
 クリスマス企画の取材の打ち合わせは、必要最小限の言葉しか翔吾とは交わさないようにした。

 ハルの作品はあのバレンタイン企画以来『Chat』のレギュラー商品になっていたから、時々、ハルもショップに顔を出している。
 他の店の偵察と称したサボリから帰ってきたユリアが、ハルの姿を見つけて走ってきた。
「あれ~、ハル来てたの? アズの寿退社パーティ盛り上げるからね。ハルもちゃんと出席してよ~」
「いつの間にそんなパーティやることになったの? 聞いてないよ」
「やるに決まってるでしょ~。クリスマスイベントの打ち上げ兼ねてるけどね」
「なんか、うれしいなぁ」
 ハルは本当に嬉しそうだ。
 なんだか、どんどん外堀が埋められていく気分。
「アズ、また取材受けるんだよ。聞いてるでしょ?」
「そうなの?」
「やだ~、話してなかったの?」
「ごめんなさい。これで、最後の取材だな~って思うと、なんか……ね」
 ハルには最後の取材のことを話してなかった……。
「なんか……何?」
「ん? 何でもない。ただ、最後なんだなって思っただけ」
 なんでもない。なんでもない。仕事続けたいなんて言えない。
 それに、もっと根本的な事……結婚に迷ってるなんてこと、もっと言えない。
 私は、ハルに笑顔を向けた。

第ニ話 - 【7】

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「取材、最後なら見に行ってもいいかな?」
 ハルは遠慮がちにそう言った。
「え!?……恥ずかしいからいいよ」
 いつも来ないでって言っているから、ハルは一度も私が取材されているところを見たことがない。
「最後くらいいいじゃない。ね、ハル見たいよね」
「ダ~メ」 
 きっと、取材されてる私はハルが思う私じゃない……それが理由。
「うん。わかった。梓が嫌なら仕方ないよ」
 ハルも、それ以上踏み込んでこない。お互い、そうやって今までうまく付き合ってきたんだもの。
 きっとこれからも、ハルは私が嫌だと思うところには踏み込んでこないんだろうな。
 でも、それって優しさとは違うよね……?

 最後の取材の日が来た。
 いつも通りの流れで終わった後、翔吾が私に大きな四角いものをくれた。
「ほい。これ、やる」
「なに?」
 包装紙をバリバリッと破くと中から、大きく引き伸ばした私の写真がパネルになって出てきた。
「ちょっと早いけど、結婚祝い」
 相変わらず、いつどこで撮ったの? っていう写真だったけど、それを観た時、思わずこうつぶやいてた。
「私って、こんな表情するんだ……」
「だろ? これ、オレの自信作。まぁ、お前を撮った中で、に限定されるけどな」
「いつもひと言多い」
そう言いながら、その写真を見ている私の口元はほころんでいた。

第ニ話 - 【8】

【8】cherry.jpg
「お前さ、結婚してもこの笑顔忘れんなよ」
「え?」
「だからさ、こんなふうに笑えよ、な」
 そう言われて、もう一度写真に目を戻した。
「……こんなふうに」
真剣に写真を見つめる私に、
「どうした?なに真剣な顔してんだよ」
 翔吾が明るい声でいつものように、話しかけてくる。
「………」
こんなふうに笑えるのかな?私。
「真剣な顔なんて似合わないぞ~おまえには」
「………」
「……どうした?」
「ありがとう」
「……おう……」
「………」
「………」
 ふたりともなんだか黙り込んでしまった。
 それはほんの短い間だったけど。
「なんか、素直にいわれると照れるな……」
「たまには、素直になるよ。私だって」
「そっか……じゃあ、オレ行くわ」
「うん……じゃあな」
 去って行く翔吾のうしろ姿を見ていたら、もっと何か言わなくちゃ……ううん。言いたいって思ったのに、出た言葉が、
「私の送別会には来てよね」
だった。
 翔吾は振り向いて、私に向かってご愁傷様って言うように手を合わせた。
 ホンと、どこまでも憎たらしいヤツ。

 その日の夜、恥ずかしながら、早速その写真を部屋に飾ってみた。
 なんだか、自分じゃないみたいで不思議な感覚だった。

第ニ話 - 【9】

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 私は、その写真を見ながら鏡で同じような笑顔を作って比べてみたけど、やっぱり同じようには笑えない。
 何度か繰り返すうちに、なにやってんだろう?私……そう思ったら、急に恥ずかしくなってベッドにもぐりこんだ。

 その日を最後に、翔吾は私の前にもショップにも現れなくなった。
 
 ハルと一緒に式場で打ち合わせをした帰り、久しぶりに私の部屋にハルが寄った。
 コーヒーを入れて、キッチンから部屋に戻ると翔吾が撮った写真をハルがじっと見つめていた。

 私は、なんだかその写真をハルに見られるのがすごく恥ずかしくて……そう、たとえば裸の身体を隅から隅までじっと観察されているようなそんな感じがして、思わず写真の前に立ちはだかっていた。
「なんか恥ずかしいから、あんまり見ないでよ」
「これ、どうしたの?」
「あ、うん、撮ってもらった、っていうか、撮られた」
「誰に?」
「あ、取材でね」
「柳田さん?」
 ハルの冷静な声が聞こえた。
 取材にきてるのは、翔吾のところだけじゃなかったのに、いきなり翔吾の名前が出るとは思わなかった。
後ろめたい事なんかなにもないのに、なぜか私は動揺した。
「うん……そう。柳田さんが、なんか、結婚祝いだってくれた」
 私はハルの前では、翔吾のことを柳田さんて苗字で呼んでいた。
 なんでだろ?
「そ……」
 なんだかいつもと様子が違う。ハルが一瞬、少しムッとしたような表情をしたのを私は見逃さなかった。

第ニ話 - 【10】

【10】cherry.jpg
「ヘンな顔でしょ……こんなの飾る事ないよね。今外すね」
「なんで? いいよこのままで」
「そう?」
「こんな顔するんだね、梓は……。そうだ、結婚式の写真、柳田さんに頼めないかな? 梓から頼んでみてくれる?」
「わかった。頼んでみるけど……」
 私は、ハルの言葉に引っかかっていた『こんな顔するんだね』って事は、私はハルの前でこんな笑顔を見せたことがないって事だよね……1年以上付き合ってきたのに?
 
 その日私は、久しぶりにハルに抱かれた。

 結婚が決まってからというもの、忙しかったせいか、婚前セックスレス状態だったのに、急に私を求めてきた。
 でも、私はその気になれなくて一瞬ハルを拒んだ。いつもなら、そこで終わるはずだったのに、今夜のハルは違った。強引に私を押し倒して、服の中に手を滑り込ませてきた。
「ちょっと……待って、ハル……あ……」
 抵抗するのをあきらめた私は、ハルの愛撫を受け入れてカラダをひらいた……。
 私のカラダを優しく愛撫していくハルの指の繊細な動きに、感じた振りをする私……。
 頭の芯が醒めている。
「あ、ん……ん……はぁ……うっ……」
 優しく私の乳房を愛撫していたハルの手に、ぐっと力がはいった。
「痛い……」
 そう言おうとして言葉を飲み込んだ。
 ハルは翔吾が撮った写真を暗く光る目で見つめていた。
 でも、それはほんの少しの間の事で、私はそんな事には気づかないふりをした。
 なんだか、見てはいけないものを見てしまったような気がしたから……。

 いつもなら、避妊するハルが今夜に限ってコンドームを使わずに私の中で果てた……。

 その時、私が思ったこと……。

『子供ができたらどうしよう……』

2007年04月01日

第三話 - 【1】

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「早く頼んでおいた方がいいよ、写真のこと」
 いつになくのんびり屋のハルが珍しく私をせかす。
「そんなに急がなくても大丈夫だと思うけど……」
「そうかな……」
「ダメだったら、他の人を紹介してもらえばいいし」
「僕は柳田さんに頼みたいんだ」
 ハルは少し強い口調で言った。
「わかった。明日、頼んでみる」
 本当は嫌だったけど、そんなこと言えない雰囲気だった。

仕方なく翔吾に結婚式の写真を頼みに、自由が丘の『望月写真館』に行った。
 いつもここで、写真の現像を頼んでいるそうだ。
 携帯にも出ない翔吾の居場所を教えてくれた編集部の人がそう教えてくれた。
 忙しそうに、写真のネガにレンズをあてて選んでいる翔吾の背中は、話しかけにくい雰囲気を漂わせている。
「あのさ……結婚式の写真、翔吾に頼みたいってハルが言ってるんだけど、どうかな?」
「断る」
「どうしてよ」
「なんでオレなわけ?」
「あの写真見て、ほら、結婚祝いにくれた写真。それでハルが……」
「ハル、ハルって……お前の意思はないのか?」
「そんなこと言わないで、撮ってやれよ。あいつ、へそ曲がりだから気にしなくていいよ」
 コーヒーを持ってきてくれた、翔吾の友達がそう言って笑った。
 ここにユリアがいたら、即ターゲットになっている顔だ。
「なら、誠、お前が撮ってやれよ」
「ダメだよ。オレ写真趣味だもん」
「写真屋の息子のくせに、なにが建築士だよ。親不孝者」
「あっ、オヤジがこの写真館、翔吾が継いでくれるといいんだけどなぁって言ってた」
「う~ん。オレが夢に挫折したら考えとく」
 えっ? 翔吾に夢なんかあったんだ……カメラマンになった事でとっくに夢なんか、叶えてるって思ってたのに。
 翔吾の夢ってなんだろう? 聞いたことなかったな、夢のことなんか。

第三話 - 【2】

【2】coffee.jpg

それに、友達と話してるときの翔吾って私が今までに見たことのない顔してる。
 私の前で、男ふたり子犬がじゃれてるみたいに笑ってる。
 あんな、子供みたいな顔するんだ……。
いかんいかん、惑わされちゃいけない。
「あの……私の結婚式の写真……」
この男たち、すっかり私のことなんか忘れてる。
「あっ、ごめん。オレ、席外すからゆっくり交渉して」
「いいよ、お前が席外さなくても。オレは撮らない。用事は済んだだろ。じゃあな」
 翔吾はまるで、そこいらへんの虫を払うように手でシッシッってやった。
「なら、いい。翔吾になんか撮ってもらわなくても結構です! あ~かわいそうな翔吾。私が一番綺麗な瞬間を見られないなんて! どーも、お邪魔しました」
 私は、ドアにぶつかる勢いでそこから飛び出した。
でも、写真館から出てから、少し言い過ぎたかなって反省した。
 冷静になるために深呼吸して、もう一度頼んでみようって気合入れなおして、写真館のドアに手をかけた。
「いいのか? 帰っちゃったぞ」
「いいんだよ」
「あの子、あの写真の子だろ?」
 そんな声が中から聞こえてきた。なによ、あの写真の子って……。
 知らないところで、自分の噂話されてるのって気分よくない。
 帰ろう。やっぱり翔吾に頼んだのが間違いだったんだ……。
 私の気合を返せ! 反省を返せ! だ。

第三話 - 【3】

【3】cherry.jpg

ハルには、翔吾のスケジュールが空いてなかったってウソをついた。
「どうしても、ダメなのかな?」
 ハルはどういうわけか、翔吾に写真を頼む事にものすごくこだわっていた。なのに、本当にダメだってわかると、
「じゃあ仕方ないね。他の人をさがしてみよう」
 と言いながら、なんだか少しホッとしたような顔をしていた。
 あの写真を見てから、ハルはなんだか様子が少しおかしい。
 でも、その理由を聞くことができない私がいた。

 こんな時、普通の婚約者同士ならすんなり聞けたりするのかな?
 あっ……今、私、普通の婚約者同士って思った……? 
普通ってなんだろう? きっと、翔吾だったら「普通、普通って言うなよ」って言うんだろうな。

 クリスマスイベントが始まって、ショップが忙しくなってきたけど、いつもなら様子を見に来る翔吾は現れなかった。
「翔吾、全然姿みせないね~。ユリア寂しいな~。クリスマス、誘っちゃおうかと思ってたのにな。ハルはアズに取られちゃったし」
 ユリアは少しすねたようにエクステの髪を指先にクルクルと絡めて、唇をとがらせた。
「携帯かけてみれば?」
「出ないんだもん。いいよね~。クリスマスに婚約者がいる人は、余裕だよね~」
「う……うん」
「浮かない顔してるけど、なんかあった?」
 こういう時、ユリアは目の輝きが違う。人の相談にのるのが好きで世話好きなんだ。だから、私もついついユリアに頼ってしまう。
「あのね、ユリア………」
 言いかけた時、白坂さんが休憩室にやってきた。
「アズ、お客様がアズに服を選んで欲しいっていらしてるから、すぐに来て」
「あっ、はい。ユリア、また後で話すね」
「うん。OK! いつでもユリア相談室は営業しておりま~す」
 私に親指を立てて、笑顔を見せる。

第三話 - 【4】

【4】cherry.jpg

私を呼んだお客様は、もともとユリアのお客様だった人だった。
「完全にユリアのお客様がアズに流れてるのよね。あなたがいなくなるのは、痛手だわ」
 私の肩をポンと叩いて、白坂さんは他のお客様のところへ行ってしまった。
 
 みんな、クリスマスに着る服を選ぶのに一生懸命で楽しそう。
 好きな服に出合えて、それを買ってショップから出て行く時のお客様の嬉しそうな顔を見るのが好きなんだ、私。
「ありがとうございました」
 入ってきた時より、帰る時の方が嬉しそうな笑顔を見ることができるのがいいんだな。
 でも、もうすぐそれも見られなくなる。
「ありがとうございました~」
 いつの間にかユリアが私の横に立っていて、一緒にお見送りしていた。
 そのお客様はちょっとバツが悪そうな顔をして足早にエスカレーターに乗って降りていった。
「あの客、あれこれ悩んで面倒くさいんだよね。アズに担当替わってよかったけどさ。アズ、今年いっぱいだもんね~。あ~憂鬱だ~」
「私もかなり優柔不断だから、あのお客様の気持ちわかるっていうか、おんなじっていうか……ごめんね、ユリア」
「なにが?」
「うん……辞めちゃうから、かな」
「なんじゃそりゃ」
 ユリアはまた少し機嫌が悪くなって、無口になった。
 話しかける言葉が見つからない私は、乱雑になっている棚の服をたたんできれいに並べ直し始めた。
 こういうことが嫌いなユリアは、周りを見回して、白坂さんの姿がない事を確認すると、
「ちょっと他の店の様子見てきますって、白坂さんに言っといて」
 と、さっさとサボりに行ってしまった。

第三話 - 【5】

【5】wine.jpg

結局、私はユリアに相談する機会もなく、ハルの工房へ向かった。
 今日は、引き出物のデザインをふたりで相談することになっている。
 引き出物は、紅白のワイン。
 そのワインボトルにサンドブラストでなにかイラストを入れようって話になってるんだけど、すでにハルがいくつかのイラストをパソコンで描いていた。
「どれがいいと思う?」
「どれもステキで迷っちゃうな」
「梓がそう言うだろうと思って、僕がふたつに絞っておいたんだけど、どうかな?」
 そう言うと、ふたつのデザインを私に見せてくれた。
 羽と天使をモチーフにしたデザインだ。
 ふたつのデザインはどちらもステキだったけど、このふたつから決めるしかないのかな?
 ハルは私と一緒にもっと迷ってくれたりしようなんて思ってないのかな?
 優柔不断な私に気を使ってくれてるのはわかるんだけど……なんだかそういうの、寂しいよ。
 ふたりでいるのに寂しいよ。

 ふたつのデザインを見比べながら、黙って考えてると、なんだかお腹が痛くなってきた。
「ちょっと……行ってくる」
 生理が始まっていた。
 その時、私はなんていうか、ホッとしてこう思っていた。
 
『これでまだ、引き返せる……』

 そんな致命的な考えを打ち消そうとしたけど……。
『このひとじゃない』
 って、心のなかの小さな私が囁いた。

「大丈夫?梓……気分が悪いなら無理しなくていいよ」
「うん……ごめんなさい」
 私はまともに、ハルの顔が見られなかった。

第三話 - 【6】

【6】cherry.jpg
その翌日、翔吾が珍しく『Chat』に姿を見せた。

「よっ!結婚式の写真頼まれてやってもいいぞ」

 タイミングがいいんだか、悪いんだか……まったく。

「今はそのこと、話す気分じゃないの」

 その瞬間、翔吾がシャッターを押す音が聞こえた。

「なにすんのよ」
「悩める乙女の顔をね、一枚」

 翔吾はそう言うと、ファインダーから、目を離してこっちを見て、ニッと笑った。
 なんでこうやって、ハルとは話せないんだろう?

「返してよ、その写真」

「やだね」

 怒っているときは、怒って。楽しいときは、楽しく。悲しいときは、悲しいって。

「あっ……」

 その時、弾みで私の手が翔吾のカメラにぶつかり、床に落ちてしまった。
翔吾は慌ててカメラに手を伸ばした。

「なにすんだよ!」

「ごめん……」

「あ~あ、壊した。オレこれ一番のお気に入りだったんだぞ」

 壊した、壊した……私が壊す、これから壊す……ハルの心……。
 私の頬を涙が流れる。
 翔吾は、カメラの壊れたところを確認しながら、顔を上げて私を見た。

「……おまえ、泣いてんの?」

「泣いてるよ」

「オレのせいかよ」

「だれが、あんたなんかのために泣くか! なんでかわかんないよ!」

 なんだかわかんないけど、涙が止まらない。

第三話 - 【7】

【7】cherry.jpg
翔吾は私の顔を覗き込んで言った。
「うわ~。ひでぇ顔~。人三、化け七だな」
「なによそれ?」
「人間三分に化け物七分のひでぇ顔ってことだよ~」
 思わず私は吹き出して笑ってた。
「笑った……。おまえさ、人生は一度きりだぞ。笑ってろよな」
「うん」
「ゲッ、素直なおまえ、キモイ」
「キモイって言うな」
 いつの間にか涙はどこかへいっていた。
 ハルとこんな風に笑ったことなんかあったっけ?
 記憶にない……。

 その日から、結婚をするか、しないか……自分の気持ちと向かい合った。自分の気持ちにこんなに向かい合って毎日葛藤したことなんて、今までなかった。
 結婚は勢いとタイミングだって言うけど、ハルとの結婚には勢いもタイミングもなかった。
 ただ、流されるまま……そのまま気持ちよく流れていければよかったのかもしれない……でも、途中で何かに引っかかっちゃった。

 散々悩んで、悩んで、迷って、迷って出た答えは……。
 結婚しない。
 私の心は決まった。
 ハルはなんにも悪くない。悪いのは私……。

第三話 - 【8】

【8】cherry.jpg
「梓ちゃん、どうしたの?」

「え?……あっ、はい?」

 気がつくと、ハルのお母さんの顔が目の前にあった。
 心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
 何度も私を呼んでいたみたいだけど、全然気づかなかった。

 結婚しないって決めたものの、まだハルに言えずにいた私は、今夜もショップが終わってから、ハルの工房を手伝いにきていた。

「あらあら、お夜食にも手をつけないで……どこか具合でも悪いんじゃない?」

 私の額に手を当てようとする、ハルのお母さんの手を無意識に避けてしまった。

「大丈夫です。ほら、元気、元気。美味しい」

 慌てて、お母さんが作ったおにぎりをほお張った。

「……そう? なにか心配事があるなら、遠慮しないで言ってね。もうすぐ梓ちゃんは私の娘になるんだから」

 ハルのお母さんは、私の娘になるんだからってところで、うれしそうに微笑んだ。
 お母さんは、女の子が欲しかったらしく、私とハルの結婚が決まった時に一番喜んでくれた。

「は、い……あの、すいません。やっぱり今日は帰ります」

 ハルのお母さんの笑顔が胸に痛くて、私はこれ以上この工房にいるのが辛かった。

「そうね、そうね。ハル! 梓ちゃん送ってあげて」

「いえ、大丈夫です。ハルも忙しそうだから」

 私は、逃げるように工房を後にした。
 やっぱり、今日も言えなかった……。
 
 私はずるい。
 こういうことって、なかなか言い出せなくて、ショップの忙しさを理由にハルの工房にも行かなくなった。

第三話 - 【9】

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工房に行けば、ハルの両親から結婚の話題が出るのは当たり前のことだし、それに平然と答えられるほど、冷血ではない。
 「ごめんなさい。今日もそっちに行けない」
 今日も工房には行けないと電話を入れた私の耳に、ハルの声が答える。
 「うん。わかった。梓も身体に気を付けて。こっちはなんとかなるから」
 その後ろから、聞き慣れたハルのお父さんとお母さんの声が聞こえてくる。
 この瞬間が、今は一番つらいかも。
 結婚をやめるということは、この人たちのこともみんな巻き込むってことだもん……。

 気持ちは決まっているのに、いざとなると言い出せないから逃げる……その繰り返し。

 でも、いつかは……いつかじゃなくて、早く言わなきゃ。
 悩んでいる時間は途方もなく長く感じたのに、結論が出てからの時間はあっという間だ。

 この時間の体感速度というやつは一体どうなってんだろう?

 たとえば、子供の頃の夏休みは途方もなく長く感じたのに、中学、高校と進むに連れて短く感じていった。
 人に聞いた話だけど、学習してないことは長く感じるんだそうだ。
 夏休みということを学習するとそれが、経験値として脳にインプットされて、少しずつそれをクリアする速度が速くなるかららしい。

 ほんとかな?
 でも、嫌なことは今でも長く感じるのはどうしてだろう? 嫌なことだって学習してるのに……。
 嫌な事は本能的に脳が忘れようとするから、またいちから学習し直さなきゃいけないのかも。

第三話 - 【10】

【10】cherry.jpg
忙しさを言い訳に、嫌な事を先延ばしにして気づいたらクリスマスイブになっていた。
 その日、ハルから携帯に留守電が入っていた。
 「今日、ドレスの試着の日だけど、梓の事だから仕事が忙しくて忘れてるかと思って。表参道の『Les Couleurs de Mariage』で21時に待ってるから」
 私とした事が、全く忘れてたなんて信じられる?
 時計を見たら、もう20時半……。
 うちのショップの営業時間は22時までだから、まだ帰れない。慌てて白坂さんに早退のお願いをして『クルマリ』へ急いだ。
 そうだ、ドレスもキャンセルしなくちゃ……。もう、どうしよう。

 『クルマリ』に着いたのが、21時半少し前で、待っていてくれたハルと担当者の桜沢千夏さんと、デザインをしてくれた橘リコさんにひたすら謝った。
 ハルも一緒に謝ってくれた。
 「本当にすみません。彼女、忙しくて、僕も久しぶりに会えたくらいですから」
 ハルが私を見て微笑む。
 「久しぶりに会うのが、ドレスの試着なんて、もっと惚れちゃいますよ~」
 リコさんがドレスの準備をしながら笑ってる。
 「私たちは、大丈夫ですから。新谷さんはこれでも飲んでひと息ついてくださいね」
 桜沢さんが、私にコーヒーを入れてくれる。
 私の仕事のことを考えてくれて、時間外の試着に快くOKしてくれたのに、私ったら……こんな大事なことまで忘れてたなんて。
 桜沢さんも、リコさんも笑顔で「大丈夫ですよ」って言って私の事を許してくれる。
 その優しさが、笑顔が今の私には突き刺さるように痛い。

2007年04月09日

第四話 - 【1】

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 ドレスに着替えた私は、鏡に映った自分の姿を見て、覚悟が決まった。

『もう、これ以上悪戯にふたりの時間を引き延ばすのはやめよう』

 だって、こんな素敵なドレス着てるのに、ちっともうれしくないんだもん。

「よかった。とってもお似合いですよ。ね、ハル?」
「うん」
 ハルと桜沢さんは、ハルの工房が結婚式の引き出物を扱っている関係で、昔からの知り合い。
 桜沢さんの言葉に、ハルの方が照れていて、すごくうれしそうだった。これから私がどれだけ残酷なことをするのかまったく気づいていないハルを見ているのが辛かった。

 私は、ハルよりもっと傷ついて罰を受けなきゃいけないって思った。
 もし、神様がいるとしたら、こんな私を許すはずないもの。

 『クルマリ』から出た私は、ハルに忘れ物をしたと言って、ひとりで戻った。
 忘れ物……それは嘘じゃない。
 
「すみません。このドレスキャンセルしてください。結婚しない事に決めたんです、私。ごめんなさい!」
 ひと息で言って頭を下げた。そのまま、顔を上げられなかった。

第四話 - 【2】

【2】cherry.jpg
「結婚しないって……ちょっと待って新谷さん……」
 桜沢さんの驚いた声が聞こえた。
「ごめんなさい」
「………新谷さん、頭を上げて」
 桜沢さんに言われて、ゆっくりと頭を上げた。
 私、そうとう必死な顔してたんだと思う。桜沢さん、私の顔を見ると、ため息をひとつついてこう言った。
「その顔は、本気ね」
 その言葉に私は、はっきりとうなずいた。
「……そう。気が変わる事は?」
 もう一度確認するように聞いてきた。
「ありません」
「ハルはまだ知らないのね?」
 静かに落ち着いた声で聞いてきた。
「ハルには、今日これから自分ではっきり伝えます。だから……」
「そう……辛いわね、お互いに」
 事の成り行きを心配そうに見守っていたリコさんが、ドレスを持ってきた。
「あの、このドレスは……」
 リコさん、悲しそうな顔をしてる。でも、私の気持ちは変わらない。
「リコさん、ごめんなさい。そのドレス、こちらで処分していただけませんか?」
 私の言葉に、桜沢さんがドレスを見ながら言った。
「他の人が着てもいいのね?あなたの為に作られたドレス」
「私のためのドレス……」
 そう言われて、もう一度ドレスを見たけど、もうそれは私のドレスじゃない顔をしてる。
「すみません。よろしくお願いします」
 私は、言い忘れたその言葉を桜沢さん達に伝えて『クルマリ』を出た。

 これから起きることを何も知らないハルは、笑顔で私を待っている。

第四話 - 【3】

【3】cherry.jpg
 ハルに一歩一歩近づいているはずなのに、どんどんハルが遠く、小さくなっていくのを感じていた。    

「ハル。大事な話があるの」
「えっ……。うん。わかった……僕も見せたいものがあるんだ。だから、工房に着いたら聞くよ」
 ハルは、そう言うと少し不安そうな顔をして、いつもは手なんか繋がないのに、今日に限って手を繋いで歩いた。
 私の手を握るハルの手にギュッと力が入っていた。

工房に着くまでの間、ハルは珍しくいつもよりよくしゃべった。
 私は、どんどん口数が少なくなる。
 ふたりの